杞憂鬼

竹を仕入れては売る李逵は、自分の仕事が納得できずにいた。衣食住を得るために、夢を身がちな李逵はさまざまな仕事場に手をつけては、一週間もせずに飽きてはやめていった。選んだ業種は百にのぼった。
それもそのはず、この竹の仕入れも実は三日前にはじめた商売で、その三日前は、石運びをしていた。業種を転々とするので、同業者や客との信頼は得れず、金は常に玄米と茶一杯づつでなくなる日々を過ごした。

村から三里ほど離れた山奥にある小さな小屋で事件はおきた。

おそらくなんてことはないありふれた偶然かもしれないが、彼にとってそれは重大な問題だったのだ。

仕事帰りの部屋でいつも通り茶を注ぐと、
鬼の金棒のような悍ましい形の茶柱が立っていた。こんなことは生まれて初めてだった李逵はおそろしくなって、閉じていた記憶をふと思い出した。

山で育った彼は、ある日洗濯を祖母に頼まれ、川のふもとまでいくと、偶然エタヒニンが牛の皮を剥ぐところを目撃したのだ。逃げようとして、急いで振り返ると、地面に死んだふりをしていた油蝉をうっかり踏んでしまった。油蝉はギィギィと金切り声のような音をたてて暴れもがいたので、皮剥ぎをしていた老人がこちらを向いた。目が遭った。血の滲むなめし包丁を持ちながら、乱れて油にまみれた白髪の奥で、目糞のついた黒くて大きい目がこちらを見ていた。目の奥には、何とも形容し難い瑠璃と血の色が混ざったような目だった。しかし、瞳の色は、限りなく黒く淀んでいた。

気が触れた障害と思った李逵はあわてて逃げ出した。走って家に帰った後の晩、家でお茶を飲もうとした時に、偶然にもニ本の茶柱が立っていたのだった。幸運の象徴の茶柱は、李逵にとってこの頃から吉凶の印だった。その後も、茶柱が立つときは、決まって身内の葬式が被ったりした。李逵は自分の偶然を気味悪がった。

李逵はそれを思い出し、鬼金棒の茶柱をちゃぶ台の上からじっと見つめては、終始体を固めていた。明日の自分がどんな人間になっているのかを想像した。

同じ業種を三日続けることができなかった彼は、今日がちょうど同業が三日で、明日の自分がどうなっているのか不安に苛まれるのであった。

三日間は優秀に業務をこなせるが、李逵は優秀でなければ気が済まなかったので、新しい業務、つまり本業に入る前にやめてしまうのが彼の知恵であり、愚かな行為でもあった。

ボロがで始めるのは四日目からだというのは相場で決まっているのだ。もちろん彼の持論だっだ。

李逵は無意識に、自分でも理解ができずにやった。というのも、持論は、持論にならないほどに、深くまで根を下ろしていたからだった。
老婆の敵意の眼差しと、まだ、仕事をしたことのない四日目の不安が、まだ生きたことのない四日目の不安が、彼を襲った。

自分で自分を襲ったというのが、ここでは正しいだろう。彼は自分の持論さえ、不安から忘れていた。頭がいっぱいだった。転んだあと、老婆襲ってきて、仰向けになったまま、刃物で何度も刺される自分の姿を想像した。

その後は、茶柱、赤い茶柱、睨みの目、石を持ち上げようとして、爪が割れそうになった。痛み、過剰な脅迫、老婆が追いかけてきて、仕事をした。逃げた先には、吉凶の証、それは刃物で印付けられた血の印、責任が迫った。親方の怒鳴り声が聞こえる。それから、川で皮を剥がされる。自分がつま先から、剥がされる。
皮を剥がれた自分と、他人、交互に、脅迫の怒鳴り声が聞こえる、殺人、血の滲み、爪が捲れる。茶柱は、自分の頭を掻き続けると、血の匂いがする。つんざく痛みがする。

気づくと寝床にいた。

明日の李逵は、李逵でさえ全くどうなるのか検討もつかなった。朝一で突然起きては、山の芋取りに出かける日もあれば、脈がないかの如く、死んだように一日中寝る日もあった。李逵はなだらかな斜面が突然地滑りで崩れ落ちるような感覚になるかならないのかを心配した。酒でも毒でも治しようがない。

明日の自分がどうなってしまうのかわからない彼は、とうとう自分が明日鬼になってしまうのではないかという結論にたどり着いた。
李逵はまだ、自分が鬼になったことはなかったからだ。

はじめて遭遇する自分を恐れるなら、鬼になるほどでなければ、恐ることはあるまい。
李逵の杞憂は根拠はないが、李逵自身は確信していた。

それもそのはず、いくら自然資源が豊富にあるこの山でも、もう百種類も仕事の面接をしてしまえば、顔がしれてしまっているのである。
親方に会うことを一番に恐れた李逵は同じ業種には行くことができず、行くなら他の村で過ごすしか手立てがなかった。が、金もないので引っ越しもできず、おまけに小屋の隙間から風が吹いて、戸棚との建て付けの悪いところからガタガタと音をたてるので、寝ることもできずにいた。昨日の水面を見た時、寝不足で顔が腫れ、目が真っ赤になり、それこそ鬼のような形相をしていた。

彼が鬼になってしまうのは時間の問題だった。

心配で夜も眠れず、狼が遠吠えをしはじめた頃、とうとう彼は孤独に耐えられなくなって、村に向かって一直線に山を降りた。

急な斜面を枯葉と共に滑りながら、ところどころ膝に怪我をした。途中で布が枝に引っかかり、少し破れた。

村は静かに寝静まっていた。
合掌造りの民家から尋ねることにした。李逵は次に自分が寝てしまったのなら、それこそ毒虫になるか、化物になるかの瀬戸際で、余裕もなしだった。しかし、こんな時に冷静になることが大切だと今までの書物に教えられてきたことを準拠するように努めた。

「冷静さは焦りから生まれるのです。決して最初から冷静なものはいません。」

「すみません。誰かいませんか。」

戸の奥で足音が聞こえ、少し経つと、寝衣を着た婦人が眠気の目を擦りながら応答した。

「なんでしょうかこんな真夜に。そなたに心はないのですか。」

「すみません。とても変な質問なのですが、私は今どんな姿をしているのでしょうか。不安で眠れないのです。いや、眠ってしまったら最後、自分でも今日の自分のままでいられるのかが心配で、どうすればいいのでしょうか。」

婦人は気味悪がり、手首を擦って面倒臭そうに返答した。

「あなたのことは、あなたが一番知っているのではありませんか。」と至極真っ当な解答したが、李逵はそれでは満足できなかった。

婦人はその後、近いところに、いい漢方を出してくれる店があるから、そこに行って頭を治してきなさいと言い、戸をしめた。

「なんて悪質な婦人なのだろう。私はもうすぐで死ぬかもしれないのですよ。もしかしたらあなたを殺す鬼になって、化けて出てくるかもしれないのですよ。明日のことなど、私だってわかるはずがないではありませんか。」

「この家は漆作りで!なんだか被れそうだ!
ほら、私の体がだんだんと指先から赤くなっている。次に手首が。戸に塗ってあった塗料が、私の肩から首を通して、いずれ胸に伝わってくるでしょう。」

たちまち心臓が締め付ける感覚に李逵は襲われた。締め付けはたちまち体の奥へ奥へと侵入していき、苦しみは核心に変わり、李逵を握りしめていた。血管の中身には、悪しき波長が流れていることを李逵は薄々感じ取っていた。

李逵は民家の戸の前で横たわりながらうわ言を言い続けた。

「そうだ…薬屋に行こう。薬屋なら私を救ってしまうことだって一つや二つあるに違いない。」

みぞおちを肘で強く抑えながら、出来るだけ心臓の血流を止めるように歩いた。離すと下から上がってくる胃からくる血液が、心へと侵入してきそうな気がしたからだった。

「下からくるものというのは、悍ましいものばかりだ。経験上、みなそうだった。質の低いものは皆下に行くのだ…枯葉だって水だって、落ちこぼれた後、耐えれずに自ら自然に任して勝手におちてくるものなのだ…汚く蔑まれ、沼になる有り様はこっちだって見てられないものだが、全ては自分からそうなっていくものなのだ…。」

落ち着くために独り言を呟き続けたが、はたからみたらそんな態度は落ち着いていないと同義であった。

「そんな自然の摂理が、耐えず私の胸へと這いがってくるようではありませんか。私は明日の玄米を買うために必死なって働いているというのに。」

「なぜこの村は黙ったままなのだろう。」

薬屋についたが、明かりは当然のことながら何一つついていなかった。

今日の出来事の怒りと焦りが私の足へと汗となって流れた。

「すみません誰かいませんか。」

戸を何度も何度も叩いた。

また、奥でバタバタと足音が聞こえたのち、主人が部屋から出てきた。

「なんですか!こんな夜に。ふざけるのも大概にしてくれ!」

そう言った後、李逵と目が合うと、主人は泡を吹いてその場で卒倒した。

「大丈夫ですか!しっかりしてください。
あぁ、今日はなんて日だ。両手が3本ほしいと、ここまで思った日は生まれて初めてだ!」

下からくる悪しき血液を抑えるための肘と、薬屋の主人を持ち上げて家に持ち運ぶには、二つの腕では全く足りないと思った。

しかし、不思議と李逵はこの主人を持ち上げるのは案外簡単だということに気づいた。
持ち上げてみると、ひょいと肩にかつげるほど、主人がとてつもなく軽かったのだ。
成人男性が重いというのも、案外思い込みだっのかもしれない。日頃の力仕事が功をそうした。

李逵は、薬屋の主人を自分の家に持って行くことにした。

辺りは月明かりがしんしんと光り、帰り道の山道を優しく照らしていた。

しばらく歩いた後、ふと道の真ん中にあった大きな水溜まりに、反射した自身の姿を見た。

頭は血不足で青ざめ、目は白目がないほどに赤黒く染まっていた。手は太くいびつに歪み、
泥だらけで切り刻まれた着物は肌に張り付き、垢と同化しているようだった。体の半分が漆のせいで蕁麻疹ができ、腕から真っ赤になっていた。李逵は自分がこんな姿になったのは、夜の暗さと水面が泥水で濁っていたからだと思った。

冷酷で冷たくなった李逵の真剣な顔は、水面越しにこちらを見ていた。指を指すようにこちらに訴えかけているようだった。

「なんて苦悩の顔をしているのだろう。
この顔相には、娯楽を楽しんだことない罪人のような要素が詰まっている。いや、娯楽を娯楽として楽しむことができなかった嫉妬の眼だ!
明日がわからないから、駒を回す時だって、いつも必死だったのだ。俺はヌルく舐めているようにかかる奴らが許せなかっただけだ!」

李逵は発狂しながらぐるりと体を反転させ、主人を返すために、あの憎たらしい婦人がいる村に戻った。

主人をクヌギの木の枝に着物越しに吊るした後、
家にも帰らず、山を降りながら行き着いた、
あてのない川辺の石畳で眠りについた。
李逵は、今までの杞憂が全て晴れたかのように深呼吸を深くつきながらゆっくりと肩に入れた力を落としながら獣のように眠った。

このとき生まれて初めて安眠を体験したのだった。

朝が明けると、昨日の雨で川は増水し、石畳だったはずの川辺は意図も容易く濁流に被さり、李逵ごと綺麗に洗いざらい川下へと流していった。

その後、李逵の姿を見たものはいないという。

 

 

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